Request/JUJU
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Hello,again~昔からある場所~

の胸を突く切なさは、このアレンジで、
そしてJUJUに唄われることで正解だった と 思う。
賛否両論なのは十分わかっているけれど、わたしは、そう 思う。

AKKOの舌足らずでどこか粗雑な唄いかた(それが彼女の場合、良い)から、逆にせつなさが浮かび上がってくる原曲とは対照的に

曲そのものが持っているそうしたせつなさをJUJUという唄い手がそのまま丁寧に抽出させ芳醇に味わせてくれることが素晴らしい。
ああ、そうだった!あたしはこの曲でこんな風に思い切り胸を痛く切なくさせて欲しかったんだ!と
快感のスウィッチを見事に押されたと思った。


けれども。
抜群の歌唱力のJUJUではあるけれど
全体として何故かカヴァーよりも「コピー」「カラオケ」の匂いが消せないのはどうしてなんだろう?と疑問だった
はじめは正直「これはいいカヴァーアルバムとは言えない」と思ったが
なぜJUJUの歌唱力を以ってして?ととにかく疑問だった
期待があったからこそ、この違和感の答えを知りたかった。


それはHello againにも通じることなのだけれど
唄われている曲の「成分」をJUJU好みに抽出しているから、なのだろう。

たとえば大幅なアレンジの「ギブス」は
椎名林檎原曲の切実感の鋭さから、
むしろ切ない女のコの可愛いらしいラブソングへとテイストを変え、

当時小中の幼い女の子が唄うからこそ
夢みたいにキラめいた非現実的なポップさを実現していたSPEEDの「WHITE LOVE」は
むしろ愛する人を想う優しく胸をせつなくさせるミドルテンポバラードへになっているのである。


つまりJUJUは楽曲の持つ「テイスト」であったり「スパイス」の一部を彼女好みの味わいのものへとしてしまっていて、
もっとキツい言い方をすれば、それ以外の要素は取り除かれてしまっているんだとおもう。
基本的にカヴァーに関しては原曲至上主義の私ではあるが、
彼女のこのやり方にはむしろ新しい発見というか、
楽曲の持つ可能性の活かし方にはもしかしたら音楽の新しい可能性があるのではないか?とも思った

それは私においては「Hello,again~」で結実された「せつなさ」の抽出という要素なのだと思うし、

たしかにわたしはそれを求めていた、JUJUがそれをやってくれてよかった、とおもう。


だがしかしこれをカヴァーと言っていいのかどうのか、、
たしかに何かを捨て去ってしまっているのも事実で
自分とおりの味付けを行いたいのならばむしろ自分の楽曲でやるべきがアーティストなのではないかとも疑問である。

そして彼女が行っていることは、あくまで彼女好みのやり方をプロとして提示してしまっているのであり、

そこに置いていかれるのは原曲なのも事実だろう。


このやり方を悪いとは言わないし、たしかに可能性も感じる、良さもあると思うのだが

あくまでピンポイントのテイストの提示であり、

これにカヴァーという言葉を冠してしまうことには些かの抵抗感をわたしなどは感じてしまうのである。

カヴァーの命題とは、その唄を愛していること、その唄の味わいや骨格を決して壊さないことだ。

曲のもつ本質を見失わずに表現していれば、それがたとえミドルテンポの曲をロックにアレンジしたとして「カヴァー」だと言っていいだろう。楽曲の世界を壊さない、という言葉とはそういうことだとわたしは思っている。

だが彼女が行ったことは、そうした曲の持つ性格の整形みたいなものなのである。

だからこそ「カヴァー」の言葉には引っかかりを持ってしまう。



はじめは本当に「Hello againはよかったよ」で済ませてしまおうかと思ったが、むしろ非常に考えさせられるアルバムであった。

これはJUJUへの批判というより、むしろ音楽のあり方そのものを問われるような問題であったように思う。

これだけ誰でも曲を唄える時代において、「本質」を問う作業の必要性がまさしく淘汰されつつあるようにも思えた、変革のような警鐘のような複雑な出来事となってしまった。



だがしかし、こんな複雑なことを考える必要もなく、

単純にJUJUの唄声が聴きたければ彼女のヴォーカリストとしての実力から見事にそれに応えてくれるし、

彼女世代の人にとってはまさにツボのラインナップはコンピレーションのようで楽しめるだろう。

悪いアルバムではない、だがしかし非常に大きな意味を持つ出会いとなった。

だが繰り返し言うようだが、わたしにとって彼女の「Hello,again」はまぎれもない正解のそれ、他ならなかった。

だからこそいまこんな複雑な思いにかられていることをわかってもらえたら、なんてことを言い訳がましくも書き添えて今日の記事は〆たい。





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いまさらわたしが紹介する必要もないくらいのビック新人バンド、女王蜂。

メジャーデビューアルバムの「孔雀」については女王蜂らしいセンセーショナルさが満ち溢れていて、その確信犯ぶりに非常に痛快な思いをさせられた。

前作の「魔女狩り」と変わらず昭和歌謡とグラムの要素を自分なりの解釈で再構築しながらも、世界観は圧倒的に女王蜂ワールド。

二番煎じでも模倣でもなく、ただ自分の好きな音楽を自分たちでリバイバルさせて、自分たちの「音楽」として扱えていることが素晴らしいと思う。

もはや10年代~に新しいジャンルであったり革新的な形態を希望するのは不可能だと思うし、その自覚を恐らく若手バンドたちも同様に感じているのだろう。

いやむしろ、その若さがゆえに、自分が思春期・青春を過ごした(なんだがこの表現は恥ずかしいけれど)音楽を素直に「イイ」と言える価値観があるのだろう。それは彼らの若さゆえのタイムラグなんだとは思う。

女王蜂に関してはバンドの影響そのものを受けていないが(ヴォーカル・アヴ様が聴くのはガガとPerfumeくらいのものらしい)10年代のバンドに感じるのは、既存のシーンやバンドたちに対して越すとか変えるとかシーンがどうこうだとかそういう思惑よりも、素直にそれらが“好き”で、だからこそ自分たちもバンドやるんだ!というそういう素直な感じが良いなあと思う。

そしてそういうまっすぐな衝動こそがいまの凍てついた音楽シーンを変えてくれるのではないか、と懇願に近いような期待をも思ってしまう。


妙に話がズレてしまったが、女王蜂の話に戻ろう。

彼らの音楽というのは一貫してブレがなく、そのまま彼らの思想や生き方を反映していて、「=」という表示は間違いではないな、と思わされる。

ヴォーカル・アヴ様のコスモのような人間という生き物への眼差しは時に弱さと享楽を許し、欺瞞と嘘を暴く。

たまにある夜遊びと営みを許す寛容さも、淋しさに震えそうな思いに共感を示すことも、嘘くさい綺麗事を剥がしていく怒りも、おおよそ彼らの生き方そのものなのだろう。

わたしが彼らから思想や生き方として感じるのは、人間の弱さを寛容する姿勢であり、そこにある人間愛である。

人間だから淋しいし、人間だから弱いし、間違うし、でも女王蜂をそれを許しているのだ。

月並みな言い方をすれば淋しくて夜を共にしました、なんて間違いも、

享楽的に楽しい夜遊びに興じています、なんて事態も女王蜂は圧倒的に許している。

それは単純に彼女たちがそういうことが好きなんだと思うし(あのデコラティヴな衣装からも、彼らが華々しい意匠を愛していることが伝わってくる)、そしてそれを是認する所以とは、

その華々しさを、ぬくもりを求める人間の性そのものの働きを見つめているからである。

さみしくってぬくもりを求めていいんじゃない?という“OK”の視線は実に新しい。

そこには理性とか観念を基にしないタフな生理のバネを感じるのである。

それでも素晴らしいのは彼らがそこに、甘く生ぬるい感傷的な理由や言い訳を一切つけず、

動物そのもののように「淋しいから」「楽しいから」だと認めているからである。その自認の意識こそが彼らの享楽的な遊びが清々しい人間の営みのようにすら思わせてくれるのである。

彼らの言葉にも世界にもブレもズレもないと思えるのは、そういう部分だと思う。

自分の人間としてのありかたに余計な言い訳を一切しないブレのなさは、しなやかな豹のようにいっそ美しい。


かといって彼らがただただ享楽的に楽しいことに興じているだけの若者であれば、何もこれほどまでに多くの人の心を打ったりしないだろう。

あらゆる音楽評論で騒がれたとも思うが、今作に入っている「告げ口」の壮絶さは秀逸そのものである。

ドラマティックな展開を支える不穏なメロディライン、アヴ様の巧みに使い分けられた声色ひとつとっても完璧である。

なによりもこの歌詞の衝撃的な展開は、その内容ももちろんだが、それを唄う女王蜂・アヴ様の人間観の露呈が凄まじい。

うすっぺらい欺瞞や嘘を暴くその怒りのダイナニズム。

「おいなんか言うてみろ」と怒鳴るアヴ様の怒りは、この世界にはびこっている虚構へのどうしようもない怒りであり、そんな虚構が存在している世界への青く澱んだドブ底のような悲しみでもあるのだ。

だからこそ、「告げ口」では非哀にもにた怒りが暴力的なまでに鳴り響いているのである。




全8曲の中であらゆる世界を展開しながらも、そのカラーも匂いも徹底的に女王蜂そのものであり、

結成から数年のバンドで、ここまで色濃く自分自身を表現しきっていることに驚きを隠し得ない。

最初聴いたとき、前作からの「変わらなさ」、つまり女王蜂らしいところがありすぎて、

「これは変化してないんじゃないか?」と思ったが、何度か聴くことでその思いは払拭された。

女王蜂は、女王蜂らしさを携え消さず、むしろ継ぎ足すようなやり方で革新してゆくバンドなのではないかと思えたのである。

なにより彼らの存在はひとつの事件であるし、このシーンに大きく揺さぶりをかけている。

まずはこの大きな新生児が世界を思うままに揺さぶる事件を見つめ続けていきたいのである。

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椎名林檎の新作「カーネーション」はNHKの朝ドラ主題歌というタイアップつきである。

こうして考えれば、デビュー以来そのセンセーショナルさがピックアップされがちであった彼女のキャリアが、

十年以上の時を経てむしろ音楽の「普遍性」「スタンダードさ」に至っていること、

そして世間の評価も一致してきているということがうかがえる。

むろん彼女はデビュー当時にしたって普遍的なJポップを描きつづけてきたアーティストであるし、

彼女がセンセーショナルであったのはその方法論に至ってのことだけでしかない。

そして椎名林檎というアーティストは世間や社会に戦いを挑みつづけたひとであり、

疑問視されるメインストリームに対して彼女はカウンターをかまし続けていたのだ。

それこそが彼女の方法論であったし、世間が彼女を履き違えてしまったのもその方法論の過激さ故である。

だがしかし本来問題にすべき点とは、彼女がそうしたカウンターとしての位置を取りながら投げかけてきた、“問うべき価値観”といった問題なのである。

若い彼女は“女”という性にまつわる苦しみを、モラトリアムに鳴り響く不穏さをくるおしいほどに表現しきった。

特筆すべきは、そういった苦悩そのものを、

なにかを拒否する“ロック”という形式に乗っかることなく、カルチャーとして、人々の手に届く“ポップス”を選び続けたところが彼女の戦いのそれである。

あくまでポップスというフィールドの中で彼女は唄い叫び訴えつづけてきたのだ。

それはカウンターをかまそうとする世間への眼差しゆえだろう。彼女は正攻法で以ってゆかりなき空虚なメインストリームに疑問を投げかけていたのである。

中身のないラブソングがあふれる当時にとって彼女が衝撃的だったのは、彼女があふれそうな意識を結集化していたらに他ならない。たしかに“他に類を見ない”存在であったからだ。

だがしかし音楽とは本来そうあるべきではないのか?中身のない、奇跡のない音楽が量産されてしまう事態の危惧と疑問こそが、彼女という才能を突き動かしてきたのだろう。

彼女はその存在と才能そのものでたしかにそうしたことを訴えてきたのである。

そしてその戦いはレベルを上げ、いまや戦いといよりもむしろ無言の訴えに近い。

彼女はもう吠えあげることもなく成熟された。もう性の重さにもモラトリアムの苦悩にも苛まれた彼女ではないのだろう。

だがしかし、彼女のポップスというフィールドにおける戦いは決して終わらない。

そしていま彼女が訴えていることとは、忘れがちで、しかしだれもが心に覚えた尊き価値観である。

こころが荒んで吐き捨てたくなるようなそのうつくしさを、彼女は忘れないようにそっと訴えかけるているのである。

そのうつくしさは今作「カーネーション」でもみられる。

創玄なオケからのイントロから広がる世界観は雄大、壮大、

それはこの歌が背負っている「生きよう」という決意そのものの大きさである。

生きる決意とは大きな声をあげることでも、吠えたててることでもなく、

そっと心に誓いをたて、そっとそれを守り続けることなのだ。

日々の圧力も生活の疲弊も知りながらも、

夜に光る星のように、静かに、でも厳かに、誓うその丁寧な強さこそが「生きる」ということの美しさなのである。

「私が今本当に欲しいものなど唯一つ」と言い切れる彼女には、

この疲弊した世界に惑わされない、凛としたたたずまいと決意を感じるのである。

そしてそこにあるものとは、どんな汚さにもどんな痛みやつまづきにも、そして誘惑にも打ち勝ってしまう

「生きる」ことへの厳かな尊敬、だれもが学んできたまっすぐな汚れを知らない無垢な意識だろう。

この世界で生きること、大人になればなるほどに失ってしまいそうな「生」や「命」への想いとは

このように美しく、強く、そして優しく寄りそってくれるものだったということを思い返す。

そしてそんな失ってしまいがちな「価値観」を彼女はわたしたちにもう一度、と喚起させてしまうのである。

その訴えこそがいま彼女のすべき戦いなのだろう。

かつてセンセーショナルで異端な存在であった彼女は、

成熟と経験を重ねた時間の流れよって、いまやスタンダードと成り得ている。

いまこの国において、たしかな意識を明確に訴えあげ、かつ、それをポップスとして人々に訴えかけ魅せることのできる数くない女性だと言えるだろう。

その鮮烈さが印象的だったデビュー当時からのその美しい赤は、

いまはむしろ、人々をそっと照らす燈のようにうつくしい。

なによりも拍手すべき点は、表面的な方法論はたしかに変わったと言えども、

彼女が決してブレることなく、変わることなく「彼女らしくあり続けた」というひとつの戦いの証明でもあることだ。

彼女は世間や社会に問い続け、音楽という文化を潤沢に底上げしていった偉大な人物なのである。

そうしたことを実感せざるを得ない一枚でもあったし、

なによりもこんなにも芳醇で深い名作(表題曲以外も素晴らしい秀作!「私の愛する人」のため息の出るような歌詞、「人生は思い通り」のくるおしさ!)をわずか1200円で感じ取れる幸福を想わされた。

感慨深い一枚。この一枚で人生について、生きることについて、愛について、もう一度考え直したっていいだろう。

それくらいの一枚だとおもう。



数少ないかと思いますが

いつもこのブログを読んでくださる方へ。


今日だけはこんなブログを書くことを許して下さい。

今日のこれは、レビューを書く立場の人間のブログではありません

わたしはただ書き記さないでいられないのです


ロックや音楽を批評する者としてではなく

ひとつの悲しみに出会ったひとりのファンとして

書かせて下さい。



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ナタリー -毛皮のマリーズ、バンド解散を公式に発表




今日タワーレコードに行って
新しいアルバムが置いてある所を
観た瞬間 涙が出そうだった。

毛皮が表紙のTOWERやbounceを
持ったままレジに行ったら
レジのお姉さんがそれに気付いて、
全部入るように大きい袋に変えてくれました。
そのときに「最後ですもんね」て言われて
また泣きそうになった


新しいアルバムは(「THE LAST」というタイトルでした。)
いい音楽で。
せつなくって優しくて、悲しくて、
でも人肌のように温かいアルバムでした。


そしてそんな、新しいアルバムは、
もう 毛皮のマリーズ の音楽 じゃなかった

毛皮のマリーズが もう
毛皮のマリーズに なれないことが
切なくて しょうがなかった。


ほんとうに解散なのか
あたしにはまだわかんないです
信じられないです
信じたくなんかないです


まだやりたいことも、やれることも、たくさんあったはず。
まだトップクラスのロックスターになれてないよ。
毛皮のマリーズが目指してたのは、もっと高いとこだったはず
まだ頂上いってないじゃん
まだ天下取ったなんて言わせない
一億稼ぐって言ったじゃん
こんなところで諦めないでよ


まだ毛皮のマリーズに夢を見せてほしかった。




バンドの解散なんてちっぽけなものなのはわかってます
こんなのちっさなニュースです
誰が死んだわけでもなければ、
誰に失恋したわけでもないです
そんなのわかってます


でも毛皮のマリーズはわたしにとって
熱くなれる魔法だったし
生きていく勇気のひとつでした
わたしには、彼らはそういうバンドでした。


家に帰ってずっと聴いているけど
バカみたいに涙がとまりません



いまはただつらくて仕方ありません。




わたしがロックにであったとき

好きなロックバンドはみんな解散していました

ミッシェルを知ったのは解散ニュースからだった、

イエローモンキーもブランキーもナンバーガールも

解散してから出会うものばかり

もう二度と出会えないはがゆさが悲しかったのです


それと同時に、最近のロック、のようなものに

どうしてもピンと来れない自分もいました

いや、好きなものはいくつかありましたし

よいと思うところももちろんあるのですが、

わたしはもっと熱狂したかったんだと思います

あくまで私にとっては、「なんとなくいいね」と冷静に評価できるようなロックたちだったのです

だからこそ好きなものだけを聴いているような日々も続きました

それはそれでもちろん幸せでした



2009年のロックスターたちの死はわたしにとっては絶望でした

特にアベの死は大きく、もうどうしようもありませんでした

個人的にも苦いことの多い一年でもあり、

わたしはさらに「好きなもの」だけを聴く傾向に陥っていました

印象深いですが、この年、10月からわたしはほとんど

イエローモンキーしか聴いていなかったように記憶しています。

2カ月もの間10年以上前のバンドを固執して聴いていたのです

昔のバンドを聴くのはもちろん悪いことではありませんが、

当時、わたしはあらゆる事を拒否していたのかもしれません。

重なる訃報にも耐えきれなかったのかもしれません。

だからこそ、絶対にわたしを裏切らない有効な昔の音に逃避していたのかもしれないと

いまは思います。



ですが、2010年、毛皮のマリーズにであって、

わたしはやっとリアルタイムのロックスターに出会えました

ミッシェルやブランキーやイエモンのように

とりつかれるような強いスター性を持つバンドに出会えたことは

限りない幸せでした

終わりではない始まってゆく毛皮のマリーズにたくさんの期待がありました

昔みたいにロックをチャートにまき散らしてほしかったし、

なにより、彼らのおかげでたしかに

ぬるま湯だった日本の若手シーンは沸きあがったように思うのです

新しい世代が声をあげてもう一度ロックンロール!と叫んで

たしかに盛り上がってゆくのはとてもうれしかったのです



毛皮のマリーズは

いろんな意味でわたしの希望でした

やっと出会えたリアル世代のスターであったし

普遍的な輝きで踊らせてくれるロックンロールは

わたしを新しい場所へと連れていってくれました

ライヴに行くたびに感動のあまりに涙はとまらず

彼らのために九州から大阪にまで行ったこともありました。

先日のアラバキに関しても、毛皮の出演が参加の理由の一因であることは間違いありません

ほんとにただ、愛すべきロックバンドで

わたしはずっと彼らに熱狂していたのです




この喪失にどう向き合っていいのかわかりません

やっぱり、信じたくはありません

解散なんかしてほしくないのです

これは、たったひとりの個人としての気持ちです。




いつかは「THE LAST」についてもきちんとレビューを書きたいとおもっています




でもいまはただ、悲しくて涙がとまりません

毛皮のマリーズの大きさが、いまはかえって悲しいです

「HEART OF GOLD」のせつないくらいきれいな黄金のメロが

いまはただ涙を誘います



ありがとうなんてまだ言いません

いま、マリーズメイニア(あえて、この呼び方をしたいのです!)たちは

わたしと同じようにこの喪失と戦っているのだとおもいます




こんなに悲しいのに、やっぱりマリーズを聴かずにいられないのが

どうしようもありません。




アルバム最後、「ジ・ラスト」の歌詞でこの日記を〆たいと 思います。




バイバイベイビー、マイ・マリアンヌ

ああ、もう、別れの時を

目の前にした 今だからこそ

君に話そう マリアンヌ


この夜空に星ほどの

甘い夢を 浮かべ

それを全て 涙に変えて

今 去り行く その前に


バイバイベイビー、マイ・マリアンヌ

ふたりの この恋の

はじまりは いつだったろうか

終わったのは いつからだろうか


バイバイ マイ・スウィート・マリアンヌ

この人生が 二度あれば

ああ、 もう君を離さずに 生きてみたかった


Oh,Baby 君よ

Oh,Baby 君よ

ああ、どうか 最後の別れを前に 振り返りそうな 僕の

背中を押してくれ マリアンヌ



グッバイ マイ・ダーリン これが最後だ

――ああ、素晴らしき人生!

さらば 僕の青春の光

さらば 僕らの美しい日々


(ジ・エンド!)


バイバイ

バイ・スウィート・マリアンヌ

先日行われたARABAKI ROCK FEST.2011に参戦してきた。

簡単にまとめて言うと、音楽が素晴らしいというそれだけで、こんなにも幸福に出会えるということを再確認した2日間だった。


遅くなったが感想を記したい。




≪ 8/27 (Sat) ≫


■ LOVE PSYCHEDELICO


移動の関係ではじめから聴いていたわけではないが、

わたしのなかではデリコによってこのフェスをはじめられたのは単純に嬉しかった。

彼らに関しては3rdアルバムまではそれこそ熱をあげて聴いていたのだが

最近の活動に関してはメディア上で確認する程度になってしまっていた。

だがしかし、久しぶりに触れる彼らの音楽は俄然ピースで、気持ちよいのにほんのすこし切なくて、

踊りだしたくなるのに、いつまでも聴いていられるような安定感が心地よかった。

最新シングル「It's you」からデビュー曲「LADY MADONNA~憂鬱なるスパイダー」まで網羅したセットリストには

そのサービス精神に思わず、ありがとう、とまで言いたくなった。

クールなヴォイスを響かせるKUMIの可愛さもさることながら

いまだにキッズのようにギターを響かせるNAOKIの無邪気さ(に反したハイクオリティなギター)の

変わらない姿が、すてきだ、いとおしい、と思わせるLOVE PSYCHEDELICOだった。

そして久しぶりに聴いても無条件にこころに響く、笑顔があふれる、気持ちよくてしかたがない彼らの音楽の素晴らしさをこうして感じられることの歓びをおもった。



■ くるり


ほんとうはエリアまで入りたかったところだった、が、あまりの人の多さに入れなかった。

ちょうど昼時だったのもあって、ホットドックを食べながらぼんやり座っていたのだが、

そんな中にながれるくるりの音楽が、あまりに幸福で、じんわりと胸が熱くなった。

300円のホットドックを食べながら、いまのこの時間の価値について、おもった。

きっといままでで一番ぜいたくで、幸福な300円のランチだったとおもう。

「ワンダーフォーゲル」なんて懐かしい曲が聴こえて思わず、あっ と声をあげた。

ライヴとして楽しめたわけではないが、そんなことは関係なく、

彼らの音が聴こえてくる幸福にただ包まれた一瞬だった。



■ ねごと


東京スカパラダイスオーケストラも、クラムボンも捨てて、新人ねごとをわたしはえらんだ。

一曲目が「インストゥルメンタル」(アルバム最後に収録された、スローテンポの静かなナンバー)というところに

彼女たちの攻め具合とヤバさを改めて思い知ったが、

「ループ」「カロン」「メルシールー」とポップなナンバーたちをやってくれて大変うれしかった。

だがしかし、このポップさの中にもすでに収まりきれない彼女たちの鋭利さや危うさのようなものを

随所随所にビリビリと感じて、改めて彼女たちの将来が楽しみでしかたなかった。

ほぼ最前の位置で彼女たちの姿を見ていたのだが、特にヴォーカルの蒼山幸子の佇まいには驚くものがあった。

あくまで印象でしかないが、彼女が持とうと決意しているものの大きさが、彼女の姿をひどく意志的なものにさせていたように思えた。そして、その「もの」とは、“音楽”なんだろう、とおもった。

それくらい生半可な気持ちではない強い意志をわたしは彼女から感じたし、

そしてそこにたがわない音楽がねごとにはあったと思う。

いまでも充分に素敵だが、そのポップさもたずさえながら、内に秘めている彼女たちの鋭利さもみてみたいとおもった。



■ 毛皮のマリーズ


最近の毛皮のマリーズには、不安や疑問がどうしてもつきまとっていた。

新しいアルバムの発表、武道館決定、彼らからくるニュースにわたしは喜ぶよりも戸惑いを抱いてしまった。

いまのマリーズには「これからどうなるんだろう」という思いが切り離せなかった。

そんな不安もありながら、

けれども期待をもってわたしは毛皮のステージをえらんだ。


そしてその期待は、裏切られなかった。


どの曲もわたしの血は沸きあがり、熱くなった。

新曲「HEART OF GOLD」の熱いのにせつなくて、くるおしい黄金のようなメロには涙がとまらなかった。

汗をかきながら、もみくちゃになりながら、わたしはただただ毛皮のマリーズにすべてを捧げようとしていた。

いま目の前にいる4人の出す音がすべて信じられる魔法だった。

それがたった数分の魔法でも、この時間が終わるそのときにすべてが“現在”に戻っても、

わたしはただこのときばかりは全てから解き放たれて、無敵で、

そしてもっと無敵なロックンロールバンド・毛皮のマリーズに希望をたしかにもらっていたのだ。

そしてそんな瞬間の尊さが、なんにも代えられないのは言うまでもないことだ。

この日、彼らにまた出会えたことをほんとうにうれしくおもった。



■ 斉藤和義


ボーダーのTシャツに、ギターをもってふらっと出てきた斉藤和義。

ふらふらした感じがこんなにも魅力になってしまうなんて、ずるいなあ、なんて思いながら聴いていたが、

この魅力に抗うなんてやっぱり不可能だった。

「ずっと好きだったんだぜ」では、甘酸っぱいのにオトナな世界観にやっぱりいいなあ、とにっこりしてしまった。

が、やはり期待を裏切らず、そのまますぐに噂の原発ソングになった。

仙台のこの地で唄われることの意味も考えたし、

この国に生きている人間ならば、この深刻さについて思うところはもちろんある。

不謹慎だと言われても仕方がないとは思うし、被災地の方に対して失礼なのも承知であるが、

こんな時世の中で声高々と「ずっと嘘だったんだぜ」と言い切ることの痛快さ、言ってしまうことの楽しさが、

まさにロックなんじゃないか、と思わされたのだった。


最後に聴かせてくれた「歌うたいのバラッド」の沁み渡るようなうつくしさには

時が止まるような思いがした。

最初から最後までゆるやかにそれでもたしかに魅せてくれた、最高のいい男だった。



■ PONTIACS


ライヴも終盤、ということで後ろでゆっくり観ようと思っていたのだが、

ベンジーのギターが聴こえてくると、身体は我慢できずにライヴステージのほうに走り出してしまった。

夜が訪れて、涼しさすら覚えた鰰ステージで繰り広げられる世界は相変わらずダーティでかつタフ、そしてへヴィ。

狂ったように踊りたくなったし、溺れることをいとわないほど飲み込まれたし、叫ばないでいられないほど格好よかった。

夕焼けが落ちて夜になればなるほど、あやしく、あぶない彼らの音があふれていく様子はゾクゾクするほど美しかった。

ベンジーのギターが天才的なのはいまさら言うまでもないが、野外で聴くあやしさもまた格別だった。

一瞬で世界をPONTIACSのものにしてしまう彼らには本当に頭があがらないが、

あのあやしいうつくしさは忘れ難い思い出である。





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注目のガールズバンドとして昨年デビューした、ねごと。

CMソングで耳にした人もいるだろうし、雑誌等でちらちらと目にしている人もいるかもしれない。

わたし自身はデビュー直前の彼女をライヴで観たことがあったのだが、

「ピアノのあるガールズバンドなんだなあ」ということと、

独特のユルいMCに「ガールズバンドっぽいなあ」と思ったくらいの印象だった。

そして、それしかなかったし、“そういうバンド”なんだと片づけた。


だがしかし、わたしのそんな審美眼はあっさりと崩壊してゆく。

彼女たちは、わたしのいたらない判断を破り捨てる、輝きをもったバンドだったのだ!


メジャー1stアルバムのタイトルが「ex Negoto」なんて、あまりにも不敵すぎて、

このタイトルひとつからして彼女たちのセンスが凄まじいことが窺える。

「サイダーの海」からはじまる突き抜けた爽快感とポップなきらめきの洪水、そしてそれが告げる「ねごと」のはじまりには思わず手が止まる、こころが止まる、この耳に神経が注がれる。

ピアノがたたみかけるメロの美しさを、支えるどころかむしろリードするようなリズム隊の心地よさも秀逸だが、

コーラスも、ヴォーカルも、リズム隊も、ピアノも、

楽器や彼女たち自身がまるですべて溶け合うようで、同時にぶつかりあうように、

うねるようにひとつの世界観を産み出していっていることが存分に感じられて、実に爽快だ。


うねるような彼女たちのまっすぐなエネルギーはすべて、メロディに、プレイに、重なり合いに、

そう、音楽の細部たちにまで注意深く注がれていて、

突き抜けるようなエネルギーを緻密なサウンドによって構築していこうとする、たしかな“バンド” “音楽家”としてのやりかたに、彼女たちが“わたし”を”裏切らない”バンドだということを、たった3分弱で確信してしまったのだ。


それくらい、「サイダーの海」から感じるものは凄まじかった。

彼女たちのバンドとしてのやり方や姿勢も、創り上げる世界観も、それを産み出す愛情も、すべてを惜しみなくわたしたちに伝えてしまう、あらゆる思いが溢れそうな一曲だったのだ。

そしてなにより、そんな彼女たちの真摯な姿勢が“音楽”にきちんと結実されていて、

そんな彼女たちの真摯さや姿勢を抜きにしてもわたしたちを射ぬく“音楽”として、効果をもって、リスナーの胸を躍らせいるという事実が、すばらしい。


そしてそうした彼女たちの姿勢はこのアルバム全編にみられ、

丁寧でたしかでありながら、飛びぬけて広がるポップさに、わたしはくるおしいような気持ちになる。

サビで魔法のようにひろがるメロディの快感は、そのままわたしたちを彼女たちの世界に引きずり込ませてしまうのだ。

彼女たちがつくりあげる世界にいつのまにかわたしも飛び乗っていて、

きらめくポップのせつない思いにわたし自身いつのまにやら胸を痛ませているのだ!



こんなにたしかで真摯なバンド、というのは久しぶりに感じた。

奢ることのない実直さと真摯さがプレイからうかがえしれ、

だがしかし不敵なまでにバンドとして我々を引きずり込ませるタフな世界、

なにより、すでに十分なまでに、ポップでうつくしくてせつない、くるおしいような“ねごとの世界”というものが明確に産み出されていて、

それをわたしたちに味あわせてくれるピュアなやさしさにまで触れてしまえるのだ。



一年前彼女をライヴで観たときにはこんな凄まじいバンドだとは思わなかった、

そして、一年前の彼女にその強さを感じられなかった自分自身を恥じる。

それくらい、彼女たちは“裏切らない”バンドだと思う。デビュー1年目の彼女たちの今後を見守っていきたい。





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東京事変の5thアルバム「大発見」

このアルバム発売のニュースを聴き、少しずつ明らかになる詳細を前にして、

前作「スポーツ」が日本のポップシーンにおける金字塔とまで言えるハイレベルな一枚だっただけに、

あれだけのアルバムのあとに作るアルバム、という重さに東京事変はどう応えるのだろう?という思いはあった。

先行シングル曲を聴いてもあまりのバラエティさに、アルバムとしていかにまとまるのか、という危惧も感じていた。


率直にいえば、初めて聴いたときは「これはアルバムというストーリーで考えると難しい」ということだった。

それは先にいった「曲のバラエティさ」ゆえに生じていた問題であった。

一曲一曲聴けばたしかにすばらしいし、相変わらずの彼らの超絶的なプレイのレベルは凄まじいことを実感してしまう。

ジャズからポップ、ロック調まで網羅しておきながらたしかに「東京事変」であることを感じさせるスキルは見事たるもの、このバラエティの豊かさに戸惑いを覚えたのも本音である。

どうしても比較をしてしまうのだが、「スポーツ」がまさに、スポーツという観念に根差した一枚であり、一貫してそのテーマを貫く楽曲ばかりであったために、今回の「大発見」においてその一貫性、というものを感じづらかったのかもしれない。


が、このアルバムタイトル「大発見」が示唆するとおり、

ひとつひとつの楽曲に対しハッとするような“発見”や“気付き”を覚えさせることが狙いなのだとすればそれは成功なのかもしれない。

個人的には、多少のまとまりもリスナーには必要ではあるまいか?とも思うが、

これだけのハイクオリティな楽曲を並べて、これ以上の期待を求めるというのも贅沢すぎるのかもしれないとも思う。

スポーツというソリッドでタフな世界観は、極端なストイックさと鍛練がもたらした奇跡の一枚である。鍛練と集中力がもたらした最高得点のようなそれに対して、この「大発見」とはその鍛練によってもたらされた筋肉や肉体でたしかに遊戯することなのだろう。

それはスポーツというジャンルは、感動という瞬間をもたらす「レジャー」という娯楽である。

前作がスポーツの美を思わせるのならば、今作はスポーツの楽、の部分を表現しているのかもしれないとも思う。


細かい部分に関してごちゃごちゃと書いたが、この一枚が実に傑作であることは言うまでもないことである。

「天国へようこそ」の妖しげ、不穏な美しさにじりじりと飲み込まれる歓びは鳥肌モノである。

突き抜けた疾走感をもたらす「絶対値相対値」で自らのテンションがスパークしたところで、

もはや誰がどう聞いてもポップ、振り切れそうな痛快さの幸福に思わず涙しそうになる「新しい文明開化」の流れはあまりに秀逸だ。

CMでおなじみのドーパミントが、デジタル配信の段階での「爽快感」「疾走感」を所持し続けたまま、変化したBMPで大人の響きを含んで成長している部分などは、この絶妙なバランス感覚のレベルの高さに感服する。

なにより、3.11以降の世界に広まる希望として、「21世紀宇宙の子」の響きはこんなにもタフで温かい。



まだ発売から一週間もたっておらず、私自身このアルバムを対象化出来ていない。

そのため大変散漫な感想になってしまっていることは申し訳ない。

だが、聞けばおもわずドキドキしてしまう、そんなプリミティヴな喜びに、理念を超えて音楽が届いているのだという実感がある。

なんにせよ、この日本のポップシーンの最先端ハイクオリティバンド、東京事変の「現在」をマークすることはどなたにとっても無意味なことではないように思う。

すくなくともこんなに“唯一無二”を体現しうる奇跡のようなバンドをわたしは知らないし、なによりも彼らの音楽がこんなにも“機能”をもってわたしたちに届く、というそんなシンプルでレアな体験を是非ともあらゆる人に感じていただきたいというのがわたしの想いだ。

まだわたしも「大発見」をしている最中、そしてそれは彼らに音楽に触れ続けることなのかもしれないとおもう。

相変わらず不思議な奇跡的バンドである。

先日、HiGEの2011年ツアー「TRAVEL IN WONDERLAND」に参戦してきた。


個人的には髭のライヴは7カ月ぶりであったし、

アルバムツアーでもなかったために予習といったこともとりたてて行わなかったのだが、

時間も予習も必要としない、彼らがその場にいて、わたしがその場にいるだけで

こんなにも幸福な歓びがあふれる数時間になりうることが大変嬉しく思った。


ライヴに参戦するときに予習というものは在る意味欠かせないと思うし、

それを必要とすることはなんら悪いことではないと思う。

生々しい話だが、リスナーとしては“お金”を払って彼らの“音楽”の“時間”を得るのだから、

その時間をよりよくしたい、と思うのは必然であるし、

そのための予習は実に理にかなったものだろう。

貨幣という概念を持ち出すまでもなく、音楽を前にして、“知っている”音楽のほうが当然とらえやすいし、わかりやすいし、そのほうが、断然に、たのしい、だろう。


だがしかし、髭のライヴに関して、(あくまでわたし、の話だが)

そんな予習も必要としないくらい、断然に、“たのしい”のだ。

今回のツアーで新曲を何曲か披露していたが、それすらわたしには知っている音楽/知らない音楽

という垣根をあっさりと越え、ただただ髭の音楽としてわたしを歓びに突き動かし、身体は自然に呼応してリズムを刻んで踊らずにはいられなかった。

情報という存在を介さずとも彼らはわたしを躍らせてくれるし、気持ちよくさせてくれる。

そんななんの隔たりを感じさせない彼らの音楽の魅力にわたしは本当に素晴らしいなと思うし、

そんな彼らが居てくれることに感謝と愛情を強く抱かずにはいられない。

ただ、音楽そこにあって、わたしたちを喜ばせる、ということ。

そこにはなんのストレスや壁など存在しないこと。

そういったすごくシンプルで、かつプリミティヴなことをこんなにもあっさりと、そしてなんとも楽しげに実現させてくれる彼らの存在の稀有さ、貴重さを思わされるのだ。

それには7カ月という時間の歳月をも思わせない親しみと距離もある。

わたしにとって彼らは、遠くに離れた昔馴染みのような、

会えばすぐにもうなんの壁も距離も融けてしまう、そんな自然さでそこに“居て”くれるバンドなのだ。

距離も時間もすぐに越えてしまう、そんな彼らの人懐こい魅力は

キャッチーなメロディにも、ゆるすぎるMCからも感じられることだろう。

だがしかしキャッチーさや親しみといった部分だけでなく、彼らの超絶なプレイがその魅力をたしかに支えている。

刻むビートにも産み出されるサウンドにも響くギターにも、わたしは快感のスイッチを押されてしまう。


そう、とにかく“音楽”とはこんなにもわたしを“幸福”にするもので

彼らはそれをいとも簡単に実現させてくれる。

跳ねあがり、踊り叫び、胸にあふれる歓びが全身を貫く。

なんの難しい理論も、人生の悲痛も、もはやそこにはなく、

髭というバンドがいてわたしがいる、そんなたった二項のつながりがだけで、

こんなにも血が湧きあがるような、笑顔がとまらないような、強く歓びに変化となる、という事実をわたしはたいへん嬉しく思う。

そんなことを強く実感したライヴツアーであったし、

もう一度彼らに会いたくて仕方ないと思う。

こんなにもプリミティヴに“幸福”を実現させてくれる彼らをいとおしく思わないでいられない。

ギルティーで罪な彼らの藁をも掴まずにいられないわたしは、またいっそう彼らのことを好きになってしまった。

そんなライヴであった。

思い出すだけで、いまだに嬉しくて幸福がにじんでしまうなんて!

生きている喜びとはこういうことなのかしら、とすら思えることもまた幸せに、ちがいない。


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このブログで特に言及したことはないが、わたしは、近頃K-POPを好んでいる。

その中でわたしのフェイバリットこそが少女時代であり、

彼女たちの日本での新曲「Mr.Taxi」を先日ようやく耳にした。



K-POPアイドルの日本デビューにおいてもっとも悲惨なこととは、

あまりにセンスのない“日本語詞”である。

K-POPの醍醐味とは、あの韓国語によるあの絶妙な語感の妙である。英語にも日本語にもない、独特な言葉自体の快楽があるのである。

かつての“Gee”の日本語詞のあまりのヒドさには正直笑うしかなかったし(下手に韓国語を取り入れようとする気持ちと、日本向けに判り易くしようとするが故の安易すぎる言葉のチョイスのオンパレード。残念ながら、評価すべき点がない)、あの最高にチャーミングな曲の魅力の半分は失われてしまったとすら思った。

韓国の音楽としてのセンスを汲み取ろうとしない日本サイドの意向には至極残念であった。

韓国でのカムバック「Hoot」がハイクオリティに最先端でかつポップな、少女時代の現在の魅力が詰まりにつまった一作であったことからも、日本と韓国とのセンスの雲泥の差を思い知らされた。



そうした意味で、今回、初の日本オリジナル曲となる「Mr.Taxi」について期待よりも不安のほうが多かったというのが正直なところであった。

少なくともわたしが彼女たちに求めているものはあくまで“K-POP”というジャンルで成立する彼女たちである。

そしてそれは、ハイクオリティで非常にヒップな楽曲と、クールもセクシーもキュートもガーリーも網羅する彼女たち自身の魅力。そしてそれらを統括する要素として重要な“ポップス”という一ジャンルである、ということなのである。

最先端を行く楽曲の魅力、歌唱力からダンスまで高いレベルで魅せてくれる彼女たちのレンジの広さをまとめ、大衆を魅惑し続けるには、“ポップス”であるということがいかに重要なことか、ということは想像に容易い。

だがしがし、これだけの項目をクリアしていく“ポップス”である、という要求が、制作という観点から見て実に難易度の高いことなのかも逆説的にわかるだろう。

それを成立させてきた韓国サイドの実力を知るがゆえに、わたしはこの“日本オリジナル”には不安のほうが多かった。



だがしかし、そんな不安をたしかに払拭してくれたのが「Mr.Taxi」であった。

世界をまたにかけて活躍することを高らかに宣言する彼女たちの、ヒップでかつキュートな魅力が、したたかに、そしてたしかにポップに、見事に成立していた。

GeeやGenieで見せてきたガーリーな世界観から一転するクールなイメージも実に痛快で、いい。

一度聴けば思い出せるサビ、聴けば聴くほどにクセになる味わい、何度でも聴きたい抗いたいキャッチーさ。

見事というほどに、もうなんの文句もなく格好よい!




直に発売されるが、少女時代が日本を席巻してくれることを願ってやまない。

かつて日本にこのレベルのアイドルが、存在したことは、ない。

ハイクオリティな実力と、無尽蔵にキュートな彼女たちを愛でることに、何の異論もないだろうとわたしは思っている。

なにより彼女たちの楽曲が示唆するこの抗いがたい魅力には素直に降伏するしかないだろう。

K-POPだと侮ることなかれ、とわたしは言いたい。

なにはともあれ、「Mr.Taxi / Run Devil Run」、たのしみで、しかたがない。

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住所不定無職の最新作「JAKAJAAAAAN!!!!!」

レーベルはDECKRECである。

彼女たちが確実に階段をのぼり詰めようとしていることが窺えるし、また一段の成長をみせてくれた彼女たちが実に頼もしい。

一曲目「マジカルナイトロックンロールショー」の底抜けにまっすぐな明るさは

聴く者を笑顔でとらえてしまう不思議な力を持っている。

ロックンロールという言葉にたがわぬ、思わず踊りだしたくなる歓びがここでは素直に鳴っている。

もはや余計な思考回路を必要としない、“とまらないぜ ロックンロールショー!”の歌詞そのままに

とまらないこのショーにわたしたちはもう素直に踊るしかない

彼女たちが鳴らすこのロックンロールショーには、(いわゆるロックにみられがちな)自己憐憫の非哀も他人への怒りもまったく必要としない。

音楽鳴っておもわず口元がほろこぶ、リフがうねる、メロディがこの胸の奥を突くときに、なんの衒いもみせずに身体が動いてしまう。

そういう素直さ、そしてシンプルさのみを必要としているし、それこそがまさに音楽の基本でもあるなとわたしは思う。


そういった素直な歓びにわたしたちを突き動かしながらも、昔からの名曲「あの娘のaiko」を入れ込んでくる辺りも心憎い。

言葉に出来ない曖昧模糊なせつなさとかなしみと、まるで雨雲のようなどんよりと広がるような愛しさが、踊りだしたわたしたちにの隙を狙って沁み渡ってくる。

この曲が入ることで、一瞬だけの、ただ踊りエネルギーを消化するだけでない「住所不定無職」というバンドをみせてくれるし、なによりもこのアルバムの流れも、うまく締まるなあとわたしは思った。


こうしてみると、ただただ素直にロックンロールを愛する彼女たちの鳴らす音とは

その愛情にたがわぬ素直でまっすぐで、思わずクスリと笑いたくなってしまうような歓びに溢れている。

だがしかし、このきらめくようなロックンロールショーには、むしろポップスとしてのきらめきが、帯びているような気がしてならない。

こういう印象を持つのは実に不思議な気がするのだが、彼女たちが愛するロックンロールを鳴らすそのうつくしさが、実にポップス的な輝きなのである。

ロック、ロックンロールの定義はそれこそ人それぞれだとは思うが、

わたしにはこの一枚はポップスにカテゴライズしたい、とかんじたのである。

だがしかし、同時に彼女たちがロックンロールバンドとして生きるのだ!という強い意志を持っていることも、同じくらい強く感じるのである。

この不思議なわたしの印象が、わたしたちが彼女たちを捉えるにあたり実に悩んだ部分だ。

聴く者をたしかにとらえるし、彼女たちがロックンロールを愛していることもわかるし、鳴っている音もさもそればロックンロールのそれ、だと言えると思う。

わたしは彼女たちはたしかにロックンロールバンドだと自信を持って言える。

だがしかし、わたしは、彼女たちが産み出すこのきらめきにポップスの光を感じてしまうのである。


わたしが、このアンビバレントな感覚は妙だ、と考えていたときに、ふと思い出したのがJUDY AND MARYである。

わたしは住所不定無職というバンドがJUDY AND MARY的なものだと言いたいわけではなく、かつてのJAMが奇跡ともいえる領域でパンクなポップスを成立させていたことを思い出したのである。

もしかすれば彼女たちも、いま、そういう絶妙な領域でこの不思議なポップスを成立させているのかもしれない、とおもった。


だがしかし、ロックンロールバンドを自負する彼女たちが果たして“ポップス”を望んでいるかどうかはまた別の問題であろう。

彼女たちが鳴らす音については、今後の彼女たちの変化からまた判ってくることなのだろう。



余計なことを散々書いたかもしれないが、

なにしろ無条件にまっすぐな、笑顔がこぼれそうな幸福な一枚である。

住所不定無職の魅せるこの不思議な音の歓びを、ぜひとも感じてもらいたいと素直におもう。